エピソード



 

 熊谷守一の家は付知の名家で、土地や山林をたくさん持っていた。
  父親は岐阜で大きな製糸工場を営んでいた。7人兄弟の末っ子だった守一は、3歳の時に生母と別れて「岐阜の家」に移された。そこには父の妾がふたりいて、権力のある妾のほうが家全体を仕切っていた。
 妾のほかにも、妾の兄弟や子供などが同じ屋根の下に暮らしており、子供一人一人に乳母と家庭教師が付いていた。当時の生活について守一は、「ともかく家の中がごちゃごちゃしていて、とても複雑でした。いま思い出してもイヤになるくらいです」と書いている(『ヘタも絵のうち』より)。
 そんな中で周囲の状況に心を乱されるのが嫌で、自分の殻にとじこもりがちになった。


 守一には5人の子供がいたが、うち次男と三女は幼くして亡くなり、長女萬は21才で肺結核で倒れた。
 子供たちが次々と亡くなったのは、生活の貧しさと無関係ではなかった。絵が売れなかったからではない。絵を描かなかったからである。そのころのことを回想する守一のこのような言葉がある。
 「私は若い頃、子供が次々とできて何かと金が入用の時期に、仕事が全く手につかなかったことがあります。一年間、一度も絵筆を握らなかったこともある。まわりからやいのやいのと言われ、なぜ仕事をしないんだ、わからないヤツだ、などと盛んにせめたてられましたが、できなかったのです。・・・そのころはとてもヤル気がなかった。気がないのに、絵を描いても仕方がない。今はすこしはヤル気があるのです」(『へたも絵のうち』)
 心の中が湖の様に静まり頭の中が澄みわたった時、初めて表現のエネルギーが湧いてくるタイプだった守一は、生活のめどが立たず、子供達の体も弱く、心配事ばかり続き、心が落ち着かなくて、筆がとれなかったのだろう。
  パイプでたばこを吸う守一氏。

受け身の生き方を貫いた守一氏
左:当時の館長 右:熊谷守一氏

   守一が晩年をを過ごした千早町の家(※)は伝説的な存在である。約80坪ほどの敷地で、南側半分が庭になっており、草木がのび放題にのびた野生の王国これこそが守一の生き方を表していた
 守一はこの庭をよく歩き回った。庭の木陰で昼寝をしたり、日なたぼっこを楽しんだ。ただ自由に自分の時間を楽しむことだけを望んで生き、絵は観察という遊びの延長であった。名声やお金に対する欲はおろか、”すばらしい芸術を描こう”という気持ちもなかった
 守一は貧しさすらも受け入れた。闘う意志がないのだから、黙って受け入れるしかなかった。こうした受け身の生き方は、彼のものの考え方や見方と無関係ではないだろう。人生は望むものではなく、様々な因果の重なりで与えられるものと・・・そうした考えを絵に表すには長い時間が必要だった。守一がそれを達成できたのは、人生が終わりに近づいたころである。生きることと描くことが、そのときようやく重なりあったのだった。

※千早町の家は、現在「熊谷守一美術館」となっています。

熊谷守一記念館

住所/〒508-0351
岐阜県中津川市付知町4956-52
( アートピア付知交芸プラザ内)
TEL/0573-82-4911
開館時間/9:30〜17:00
       (入館16:30まで)
休館日:月曜日(祝日の場合翌日)
 
三毛猫

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